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概要「アメリカの人気作家ジョディ・ピコーのベストセラー小説を、『きみに読む物語』のニック・カサヴェテス監督が映画化。白血病の姉のドナーとなるべく遺伝子操作によって生まれた妹が、姉への臓器提供を拒んで両親を提訴する姿を通し、家族のありかたや命の尊厳を問いかける。主演のキャメロン・ディアスが初の母親役に挑み、両親を訴える次女役を『リトル・ミス・サンシャイン』のアビゲイル・ブレスリンが熱演。シリアスなテーマながら、主人公一家の強い家族愛が胸を打つ。」
《 シネマトゥデイ 》 より
泣かせる映画だと思って敬遠していたんだけれど、観てみたら泣かせる映画じゃなかった。
とても冷静に映画を観ている自分がいた。とても冷静に考えている自分がいた。
確実にこころに届く何かがあった。
「何か」とは、人それぞれだと思うけれど、映画から自由に感じ取れるように、この作品は細心の注意を払って創られている。その思いが、押し付けがましくなく、静かに伝わってくる。
白血病の少女とその家族の壮絶な闘い。登場人物は多いが、演出のアンサンブルとは、こういうことなんだなと感じた。両親も兄妹も、医師も弁護士も判事も、とても丁寧に描かれていて、監督の誠実さが伝わってくる。
特に長男の影が薄いように思ったけれど、かなりアッサリと彼の葛藤と変化を、序盤でグサっと描いているのが印象的だった。
で丁寧とは、適度な距離を持って描き分けるということです。人物に対して底が浅いと感じる人もいるかもしれませんが、重いストーリーなんでじっくりと描いていると、辛くなるばかりな気がします。
母親役のキャメロン・ディアスは元弁護士という設定なんだけれど、「弁護士より母」という立ち位置を、かなりぎりぎりのところで、演じていたような気がします。結構、直情型のような気がしますが、ディアスの持つキャラクターのイメージに、その点では助けられているのかもしれません。
お話が、いかにもアメリカ的な流れになってくるところも抵抗を感じないわけではないけれど、米国のテレビドラマに私が影響されているのか、余り違和感を覚えませんでした。
といっても、米国の家族の絆と個人とのバランスのとり方が、なかなか私には理解できないことが多いです。で、絶対的な正解ってないんだよな、なんてことまで考えてしまいます。きっと、そこを踏まえたうえでさらっと描いている気もするし・・・。
そう、この作品に私が物足りなさを感じるとするならば、歴然とした正解から生み出される「感動」を、必要以上に求めているからなのかもしれないと、ふと思いました。
今頃になって、予告編を見ると、グッときたりするんだよね。もしかしたら、映画を観ている時は、かなり余計なことを意識していたのかもしれないなあ・・・。
『私の中のあなた』
『私の中のあなた』 オフィシャルサイト」
概要「金銭欲を満たすために生きる男が、クリスマス・イブの夜の不思議な体験を経て、本当の幸福の意味を悟る奇跡と感動のファンタジー。文豪チャールズ・ディケンズの不朽の名作を、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズのロバート・ゼメキス監督が映像化。ケチな主人公をはじめ、7役を演じるのは名優ジム・キャリー。希望に満ちたメッセージや、俳優の演技をデジタル的に採り込むパフォーマンス・キャプチャーによる驚異の映像が圧巻!」 シネマトゥデイ より
何なんだろう、このスッキリとして気持ちよさは。観た後、ほんとに、心が洗われたような錯角さえ覚えた。
もしかしたら、この映画の狙っているものとは違うのかもしれないけれど、作品のどこか一ヶ所でも心に響いて、私に何かを残してくれるのならば、この映画は成功しているのだと思う。
同じ映画を観た人に聞くと、「えっ、そんなにいい映画だったっけ」とか「あんまり、出来のいい作品とは思えないけれど」とか、「お子様向けの取り立てて、どこがっていうところのない作品だと思うけど」と、かなり私が映画から受け取ったものとは違う言葉が返ってくる。(^^ゞ
で、残念ながら、そう言われれば、そうかもしれないと納得してしまう自分がいて、私はハマってしまったとしか、言えなかったりする。そう、「どこがそんなに・・・・」と聞かれたら、「恥ずかしいから、この話はやめよう」って、答えるしかない・・・。
映像が美しい、3Dが迫力ある、で逃げたくないなあ。「もう知ってる話だよね」とも言いたくない。
大切なものが、そのままブリミティヴな状態で、この映画の中には存在していて、そのままの状態で心の中に入ってきた。ちょうど3Dで、ぐっと差し出した手が目の前、数センチの近さでまで伸びてきて、いきなり胸の中に押し込まれた感じ。
キャラクターは、ハッキリ言って気持ち悪いし、たとえ強欲で嫌われ者の存在でも、その人をオモチャみたいに道化させて、笑わせようというシーンは気に入らない。かなり、優しくなっちゃってます、私が・・・。
ちなみに、私は3Dで観たけど、3Dじゃなくても、いいような気がします。3Dじゃなくても、この映画から、何かを感じ取れたんですから、少なくとも私は・・・。きっと原作の力が、私に作用したのかもしれません。
ゼメキスの最近の作品だと、『ポーラー・エクスプレス』も、『ベオウルフ/呪われし勇者』も気に入ってたりするんですが、この作品には、前2作を越えるような魅力は感じられなかった。3Dは確かに素晴らしいけれど、以前観た実写の3D作『U2-3D』を越えるような体験は、出来なかったし。
意図しないものが3Dによって、目に飛び込んでくる新鮮さは、アニメ系の作品ではかなり意識しないと難しいし、そればかりに囚われると作品の本質を見失いかねないので、大変だとは思いますが・・・。
概要「1964年のニューヨーク。ブロンクスにあるカトリック学校セント・ニコラス・スクールでは、校長のシスター・アロイシスが厳格な指導を信条に日々職務を果たしていた。一方、生徒の人気を集めるフリン神父は、ストイックな因習を排し進歩的で開かれた教会を目指していた。しかし、唯一の黒人生徒ドナルドと不適切な関係にあるのではないかという疑惑が持ち上がり、シスター・アロイシスによる執拗な追及が始まるのだった…。」 goo 映画より
何故かこころが落ち着く映画。続けて、もう一回観ていたい気持ちにさせる映画。
こういった流れの、こういったテンポの静かな映画が一番好きかも知れない。
結局、事件は起こったのかどうなのか、ハッキリはしない。結論も決着も見ている誰もが、一つの思いに導かれるわけではない。そして、映画の中の当事者たちにとっては忘れられない出来事なのかもしれないけれど、それは限られた人々の胸の中に収められて、過去という時間に呑み込まれていく。
正義も正解も、どの目線で見れば正しいのか、実ははっきりしないのが現実。「疑惑」「疑い」、というタイトルは、一見この映画のすべてを表しているようだけれど、タイトルへの「疑い」さえ連想させる、映画としての面白さに溢れている。
舞台劇からの映画化で、原作・脚本家が自ら監督した作品。観ていていかにも舞台劇だとは感じさせるけれど、それが気になるどころか納得してしまう映画になっている。
映画化にあたって、無理して話を付け足したり、場所を拡げたり、人物を増やしたりしていないように思えるシンプルで誠実な視点が、爽やかに潔く感じる。
シスター・アロイシス演じるメリルストリープと、フリン神父役のフィリップ・シーモア・ホフマン。この二人の役者が発散するイメージが、一筋縄ではいかない演じる役のキャラクターの奥深さに、生かされている。
事件への関わりや本音を、そのままイメージどおりに連想すればいいのか、或いはもっとシンプルでストレートな人物設定なのかさえ、こちらには図りかねる存在感があり、監督はそれを巧みに利用して、ストーリーを進めていく。
けれど、この作品で描いているのは、彼らの行動を通して観客自らが探さなければならないもの、だったりするところが、また別に面白かったりもする。
「神から遠ざかろうとも、それもまた神のためです」と、信仰を掲げてフリン神父に詰め寄るシスター・アロイシス。単視眼的に思える役もメリル・ストリープが演じると、何故か笑えず、納得してしまう。
フィリップ・シーモア・ホフマン演じるフリン神父も、どこまで下心があるのか、腹が見えない不気味さを、最後まで隠し持っている。
そういった意味では、演技を楽しむ映画でもあるんですよ、って正々堂々と突き放しているところも、面白かった。
彼らが演じているのは、何重にもなった人間の奥深いところにある心理の凄まじさ。心理劇などというレベルを超えてしまったところにある、人間としての存在理由の闘いに見えてくる。
けれど、映画としてのアンサンブルはかなり巧妙で、二人の間に入って、観客との緩衝材の役目を果たすシスター・ジェイムズを演じるエイミー・アダムスと、観客と映画との距離を縮める橋渡し役のミラー夫人を演じるヴィオラ・デイヴィスも素晴らしい。
この4人が、簡潔なんだけれど、かなり秀逸に配置されていて、唸らされる。特に「起承転結」の「転」の役目のヴィオラ・デイヴィスが、聖職の物語を一挙に身近な地平まで、引き下ろしてくる件 (くだり) が素晴らしいと思う。
また、風に舞う枯葉など季節の変化に彩られた町並みの佇まい、横殴りの雨、ツィターの響き、さりげない小道具など、映画でこそ発揮されるイマジーネーションへの働きかけも、憎いほどに効果的に使われている。
小品なんだけれど、私にとって忘れられない映画であることは確かです。映画を観る楽しみを、確認させてくれた、久しぶりの作品でした。
イギリスの監督ジョセフ・ロージーの作品をどこか連想させる冷ややか視線。けれど、この作品の底には人間に対しての、ぬくもりのある暖かなものが感じられた。
ところで、あのラストは「救い」なのか何なのか、ちょっと疑問ではあるんですが、監督の心配りと考えることにします。(^_^)
ダウト-あるカトリック学校で-
話題の映画だし、予告編とかテレビのスポットを見て、映像の迫力だけでも味わいたいと思い映画館へ出かけました。
良くても悪くても話の種にはなるし、ミーハー心も手伝って、つい観に行ってしまいます。ウチのテレビのサイズじゃ、ブルーレイとかで見ても意味ないような気がするしね。で、やっぱり映画館じゃないと、この作品の魅力は満喫できないと実感しました。
そう、かなり楽しんでしまいました。私の場合は、「『2012』を楽しむ」というより、「『2012』を観に行く」ことを楽しむ、に近いと思います。映画館で見せてくれるアトラクションを楽しむ感覚です。
ふと我に返ると、CGだらけの作品だし、描かれる人間模様も私にはいまいち受け入れられないような疑問だらけ。でもきっと、大ディザスター映画の作法を守った、とてもよく出来た作品なのかもしれません。
そう、あんまり余計な事は考えずに、素直に楽しみたい気持ちが心の底にあって、すべてを受け入れさせようとします。CG映像と音響は迫力あったし、「OK!」と心のメモに書くことにしました。
マヤの予言とか、一応作品の冒頭では人類滅亡の予兆とか描かれますが、そんなのほんと付け足しの感じだし、最終的にはこういう状況で人間って何が出来るんだろう、って疑問を投げかけてくるみたいなメッセージは確かにあります。
でも結局、善も悪も関係ないところで事態は急変していくパターンに、全ては押し流されしまうんですよね。
じゃ、どんなところが楽しめたかってことだけど、主人公たちが災害を切り抜けていく数々のシーンの、あっけらかんとした調子良さです。
「そりゃ、ないだろ」の強運シーンの連続。これでもかこれでもかと繰り返される天変地異を強行突破していく爽快感。
ハッキリ言って何回笑ったことか数え切れません(冷笑ではありませんよ、念のため)。楽しませてくれた嬉しさからの笑いです。
ハラハラドキドキなんて余裕さえ与えない「ウソだろ」シーンの連続。これはかなり気持ちいいです。
まるで超難しいテレビゲームをテンポよくクリアしていく、ゲーマーの腕捌きを傍らで見せてもらっている感覚です。その凄腕に見とれて、まるで自分がゲームでもしているみたいに感じてしまう、疑似体験の気持ちよさです。
後半は、一応「お話」をまとめるために、色々と無理して大義名分ぽい雰囲気を出そうとしている感もないわけではないですが、私はとりあえず、大きく拡げすぎた間口を閉じるための儀式のように感じました。
「別にそれでいいんじゃないかな」なんて、アッサリ認めてしまう自分がいました。あんなに気持ちよく楽しく笑わせてくれたんだから、素直に納得です。(^_^)
映画「2012」予告
この作品の特徴は、台本はあるのだけれど決定稿ではなく、その台本を手渡された役者が、一度自分の中で咀嚼して、自分の言葉に置き換えて話しているということだそうです。
まっ、「自由にしゃべっていいよ」と監督は役者に伝えているんだろうけれど、そう言われた役者は「はい、わかりました。勝手にしゃべらせていただきます。」なんてことは思わないだろう。そう、自分らしくというよりは、今の高校生が使いそうな表現、或いは言い回しを駆使して、役者から出てくる言葉は決定されていったような気がする。つまり、役者たちは自分で自分を演出しているのだろう。
誰が聞いても不自然であったり、意味不明であったりしないような表現を、きっと無意識に意識はしていただろう。つまるところ、実際は自由でも自然でもなく、その年代の感性というフィルターを通してその発せられる言葉であれば、何でもいいのだと思う。言葉自体が、この作品で大事なのではなく、言葉を自由に任されたことによる、役者が感じる、演じることへの違和感やストレスからの解放、そして置かれている状況が引き起こす精神的な不自然さの一掃なのかもしれない。なんて観ながら思っていた。
北乃きいを見ていると、まさに彼女が、自由に生きている(動いているように)ように感じてしまう。
役者たちが監督から任された思った段階で、その役の呪縛から解放されたと勘違いすることによって、生まれてくる、一種の「場の雰囲気」の自然さや安定感を狙っているのではないだろうかと思う。
「言葉の自由」に意味があるのではなく、言葉から解放された精神状態から演じられる、一見、自然に見えるフィクションの面白さを、狙っているのかもしれない。
したがって、自然に見える北乃きいの演技が、昨年の『ラブファイト』とさして変わらなくても、何も不思議なことはない。そう彼女が培った演技経験から生まれる、言葉と演技なのだから。北乃きいオリジナル、素の北乃きいではなく、役者としての北乃きいオリジナルなんだよね。
しかし、最近見かけるコマーシャルでの彼女と、さして変わらない北乃きいが、そこにいる。彼女は確かに、さらに変化していくのだろうけれど・・・。その諸刃は、この作品を既に過去のものとして、置き去りにし始めているような気さえする。
そして、いかにも自然ですと言わんばかりに、カメラワークは、ドキュメンタリーさながらに手持ちカメラを駆使したものだったりする。
冒頭の自転車での通学風景は、ピンポケ気味のカメラワークで、まずは観客に、この作品の不安定への心構えを要求する。しかし、不安定さこそが、青春だと、言わんばかりに、この作品でのカメラワークは、不安定なスレスレの自由度で動き回る。ピンポケだったのは、導入部だけ、うまく乗せられてしまった気さえする。
高校3年生の秋から冬までを、いかにも、そのまま切り取ったかのような作風は、確かに成功していると思う。まさにドキュメンタリーを見せられているような錯角さえ覚える。
あっ、でも昔、こんな映画観たよな。たしか羽仁進の『午前中の時間割り』。好きな映画だったなあ・・・。
← この映画館で観ました
それはさておき、巧妙に作られた、偽ものの青春がそこには確かに本物らしく、存在している。「うまい」ではなく「やられた」、そして「のせられた」観客の一人になってしまったのは、確か・・・。
う~ん、しかし、思い出って、その真っ只中にいるときは、何も考えずに「がむしゃら」なんだよね。だから、色は全く付いていない無色透明な、弱々しいもの。
でも、その一秒後から、既に思い出は自分の色によって美しく変色していき、その色によって強ささえも持ちえていくもの。
この作品は、その美しく変色してゆくことさえ拒否していて、無色なままのような気がする。『ハルフウェイ』の魅力は、そこにあるように思う。
ハルフウェイ - Salyu
仲のいい兄弟の「遊び」の延長上にミステリーがあるんだけれど、彼らの「遊び」は禁じられた遊びなのだろう。まるでお伽噺みたいなお話。
きっと大人になりきれていない子供が、一途に思いつめて引き起こす「悪戯」。
『春が二階から落ちてくる』、予告編でも聞けるセリフ。堕ちるのは勝手だけど、たかだか2階という小さな世界観、この言葉がすべてを表している気がするジュブナイル・ファンタジー。
予告編を見ていると、ミステリーが強調されている。その部分にも期待したけれど、映画のメインとなる放火事件についての、兄弟の最初のセリフで、大方の予想はついてしまい、悲しいかな犯人も見えてくる。
きっと、この映画が描きたかったのは、「ミステリー」ではなく、子供の「遊び」を大人がすると、こんなことになっちゃうけれど、それも、みんな子供の「幻想」でしかなかったよって感じの、幼い頃の幻影に囚われた兄弟の、「まぼろしの家族」についてのお話。
エンド・クレジットには表記されていないけれど、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」が印象的にピアノで流れてくる(単にメロディーをいただいただけかもね) 、それも二回流れてくる。
「マ・メール・ロワ」のなかの「妖精の国」という終曲なんだけど、やっぱりこの兄弟はそうなんだよなあと、納得してしまった。
そういえば、吉高由里子が「不思議の国のアリス」のウサギに見えたのは、私だけだろうか。事件への案内者としては、とても大切な存在なんだけど、これが結構可愛いんだよね。吉高由里子のウサギさんは (^_^)
かなり重い話のはずが、何故かとっても爽やかに語られている。巧妙に演出されたギリギリの生活感のなさは、役者に負う所も多分にあるんだろうけれど、何も事件は起こらなかったと、つい錯覚してしまいそう。
『二人で遊んでいたのか?』とは、父親の言葉。そう、二人で遊んでいただけ・・・。
観た直後は、かなり印象が良くて気に入っていた作品だったのだけれど、しばらく時間が経ってしまったら、何も思い出せなくなっていた。(^^ゞ
何故なんだろう? 感想を書こうとしても、「思い出すという行為」を意識しないと何も出てこない。そんな程度の作品ではなかったはずなのに・・・。
もしかしたら、そんな程度の作品なのか・・・、どうも釈然としないんだけれど素直に書くと、感想の出だしはこうなってしまう。
映画は、裏の世界に片足を突っ込んでいる日韓二人の青年の、ちょっと切ないお話なんですが、意外とさらっと、意外とあっさり感じてしまう。
そう、お話も殆ど日本でのことなんだけれど、どこの国なのかわからない、心もとなさが漂ってるし、時代感みたいなのも、どこか欠落していて、ぎこちなさも感じないわけではない。
確かに風景をみれば舞台は日本。でも、映画は、二人の根無し草みたいな存在を象徴するかのように無国籍な、そこはかとない雰囲気に支配されている、こわれものでも扱うように、掬い取るべきなのか・・・。
とりあえず、後半、彼らが商店街のカラオケ大会みたいなのに飛び入りして、「アジアの純真」を歌うシーンが出てくるんだけれど、このときの乱暴でやけっぱち気味な二人の歌声が、私の胸には異様にグサっときた。
この「一瞬」が二人の距離を縮めてしまったんだな、ってストレートに伝わってくる。でも、ここに、全ては収束してしまうのか、嬉しいような悲しいような、そして寂しいような・・・。
やりばのない、ゆくあてのない、二人の空しい"幸福の時間"のゆくえ。
「何を言いたいのか」が、監督と脚本の間には微妙なズレがあって、映画としてはそれなりにまとまっている分、「何か」がぼやけてしまっているように思う。
ラストを、あのように演出するのなら、もう少し全体の描写はハードボイルドでもよかった気もする。
フィルム・ノワールの匂いがかすかにしていたと思うんだけど、勘違いだったのか・・・。
何故か『冒険者たち』を思い浮かべた。
ケイト・ベッキンセイルが出てます。あの『アンダー・ワールド』のケイト・ベッキンセールです。で、どんな映画かも調べずに、ふらふらと映画館に行ってしまいました。(^_^)
でも、きっとSFかも、いやサスペンス・ホラーかも、なんて想像してたんですよ。(^_^;)
いやあ、驚きました。なんと、南極を舞台にした正統的な(?)サスペンス・アクション、彼女は 米国の捜査官の役でした。しかし、作品の中盤で、実はこの事件、宇宙からの生命体が絡んでいるとか、未知なる物体の影響で・・・なんて、あらぬ方向に物語が進展していくかもしれないと、そんな思いが頭をよぎったことは確かでした。
だって、あの『アンダー・ワールド』のケイト・ベッキンセールなんだもん。スタイリッシュでカッコいい『アンダー・ワールド』の・・・。
・・・・結局、最後まで、しっかりとサスペンス・アクションでした。
南極が舞台なんで、最近だと邦画の『南極料理人』を思い浮かべますが、えっ、同じ南極なの?って感じで、『ホワイトアウト』は、限りなく極寒の限りなく最果ての、南極の怖さと隣り合わせの恐怖が前面に押し出されています。
南極ってリゾート地みたいだ、なんて思わせるあの作品とは真逆の、追い詰められた、閉じ込められた空間でのサスペンス・アクションに仕上がっています。
ホワイトアウト(雪や雲などによって視界が白一色となり、方向・高度が識別不能となる現象)って凄いなあ、ただただ怖いなあ、とケイト・ベッキンセールの活躍を固唾を呑んで見入っていました。
ただ、観終わってみると、ごく普通の事件でした。南極という場所が事件をいっそう謎に包み、サスペンスをさらに盛り上げてはいますが・・・。
ベッキンセールが演じた捜査官は、本土での過去に関わった事件のトラウマから逃れるために、南極基地に赴任してきたのですが、この映画では過去の事件がフラッシュバックで挿入されます。
このフラッシュバックは、さほど謎めいた事件のものではないので、人物説明として必要ならば、冒頭にもって来るべきだったように思います。決してベッキンセール演ずるステッコ捜査官は、謎めいた人物ではないんですから。そう、フラッシュバックを、うるさく感じました。
一方、南極での事件の発端説明が映画冒頭に登場するんですが、こちらを細かくフラッシュバックさせたほうが、作品がさらに謎めいて面白かったよう気がします。
作品に緩急をつけられるような遊びが全くなくて、スケールが大きい雰囲気を押し出しているわりには、小さくまとまった映画になってしまったように思います。まっ、最初のベッキンセールのお楽しみシーンが、唯一の息抜きというのも寂しい気がします。
ホワイトアウト予告
「こころ」を持ってしまったと言い張る (ラブドール) のお話。
彼女( 空気人形 ) は、「こころ」という言葉を簡単に使っているけれど、人間の持っているほんの一部分の感情でしかないものを、やっと知り始めたばかり。
そう、その「こころ」を持ってしまったばかりに世界が見えてくるのだけれど、その世界は限りなく小さい。
空気で出来ているんだから仕方がないのだけれど、彼女が手を太陽にかざすと向こう側が透けて見える。
人間に似てはいるけれど、間に遮るもののない、限りなく透明で、いさぎよく爽やかな、彼女はそんな存在。
まっ、彼女と同じものが、世間にはかなり出回っているらしくて、人間に混ざって生活しているという話だ。ただ、簡単には見分けが付かないらしくて、やっかいな世の中になってしまっているらしい、とも聞いている。
でも、どうやら現実は、そうらしい。否定できない気がする。
彼女はきっと、人形じゃないんだと、スクリーンを見ながら何度も思った。「幻想」でも「ファンタジー」でもないんだこの映画は、と何度も思った。
彼女が最後にとった行動は、人間に近づいているという証しなのか、確かに、彼女と同じ行動をとろうという人間が増えているらしい。でも、それって案外、人間が彼女に近づいているという事なのかもしれない。
作品の、呆れるぐらいに自分勝手で独りよがりなところは、かなり他意を感じる。ただ、悪意はないと解釈したくなるほどに、いとおしささえ感じる映画でもある。
限りなく賞賛したい、一級品の愛すべき駄作だと思う。
空気人形 予告編
※ 130万アクセスにとどきました。(7/8 頃)
ご訪問くださる皆様に、こころから感謝いたします。
皆様に幸あれ!!! です。 ヽ(^o^)丿
『私の中のあなた』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
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概要「アメリカの人気作家ジョディ・ピコーのベストセラー小説を、『きみに読む物語』のニック・カサヴェテス監督が映画化。白血病の姉のドナーとなるべく遺伝子操作によって生まれた妹が、姉への臓器提供を拒んで両親を提訴する姿を通し、家族のありかたや命の尊厳を問いかける。主演のキャメロン・ディアスが初の母親役に挑み、両親を訴える次女役を『リトル・ミス・サンシャイン』のアビゲイル・ブレスリンが熱演。シリアスなテーマながら、主人公一家の強い家族愛が胸を打つ。」
《 シネマトゥデイ 》 より
泣かせる映画だと思って敬遠していたんだけれど、観てみたら泣かせる映画じゃなかった。
とても冷静に映画を観ている自分がいた。とても冷静に考えている自分がいた。
確実にこころに届く何かがあった。
「何か」とは、人それぞれだと思うけれど、映画から自由に感じ取れるように、この作品は細心の注意を払って創られている。その思いが、押し付けがましくなく、静かに伝わってくる。
白血病の少女とその家族の壮絶な闘い。登場人物は多いが、演出のアンサンブルとは、こういうことなんだなと感じた。両親も兄妹も、医師も弁護士も判事も、とても丁寧に描かれていて、監督の誠実さが伝わってくる。
特に長男の影が薄いように思ったけれど、かなりアッサリと彼の葛藤と変化を、序盤でグサっと描いているのが印象的だった。
で丁寧とは、適度な距離を持って描き分けるということです。人物に対して底が浅いと感じる人もいるかもしれませんが、重いストーリーなんでじっくりと描いていると、辛くなるばかりな気がします。
母親役のキャメロン・ディアスは元弁護士という設定なんだけれど、「弁護士より母」という立ち位置を、かなりぎりぎりのところで、演じていたような気がします。結構、直情型のような気がしますが、ディアスの持つキャラクターのイメージに、その点では助けられているのかもしれません。
お話が、いかにもアメリカ的な流れになってくるところも抵抗を感じないわけではないけれど、米国のテレビドラマに私が影響されているのか、余り違和感を覚えませんでした。
といっても、米国の家族の絆と個人とのバランスのとり方が、なかなか私には理解できないことが多いです。で、絶対的な正解ってないんだよな、なんてことまで考えてしまいます。きっと、そこを踏まえたうえでさらっと描いている気もするし・・・。
そう、この作品に私が物足りなさを感じるとするならば、歴然とした正解から生み出される「感動」を、必要以上に求めているからなのかもしれないと、ふと思いました。
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今頃になって、予告編を見ると、グッときたりするんだよね。もしかしたら、映画を観ている時は、かなり余計なことを意識していたのかもしれないなあ・・・。
『私の中のあなた』
私の中のあなた [DVD] Happinet(SB)(D) 2010-02-19 売り上げランキング : 1011 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
『私の中のあなた』 オフィシャルサイト」
『Disney's クリスマス・キャロル (3D版)』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
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概要「金銭欲を満たすために生きる男が、クリスマス・イブの夜の不思議な体験を経て、本当の幸福の意味を悟る奇跡と感動のファンタジー。文豪チャールズ・ディケンズの不朽の名作を、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズのロバート・ゼメキス監督が映像化。ケチな主人公をはじめ、7役を演じるのは名優ジム・キャリー。希望に満ちたメッセージや、俳優の演技をデジタル的に採り込むパフォーマンス・キャプチャーによる驚異の映像が圧巻!」 シネマトゥデイ より
何なんだろう、このスッキリとして気持ちよさは。観た後、ほんとに、心が洗われたような錯角さえ覚えた。
もしかしたら、この映画の狙っているものとは違うのかもしれないけれど、作品のどこか一ヶ所でも心に響いて、私に何かを残してくれるのならば、この映画は成功しているのだと思う。
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同じ映画を観た人に聞くと、「えっ、そんなにいい映画だったっけ」とか「あんまり、出来のいい作品とは思えないけれど」とか、「お子様向けの取り立てて、どこがっていうところのない作品だと思うけど」と、かなり私が映画から受け取ったものとは違う言葉が返ってくる。(^^ゞ
で、残念ながら、そう言われれば、そうかもしれないと納得してしまう自分がいて、私はハマってしまったとしか、言えなかったりする。そう、「どこがそんなに・・・・」と聞かれたら、「恥ずかしいから、この話はやめよう」って、答えるしかない・・・。
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映像が美しい、3Dが迫力ある、で逃げたくないなあ。「もう知ってる話だよね」とも言いたくない。
大切なものが、そのままブリミティヴな状態で、この映画の中には存在していて、そのままの状態で心の中に入ってきた。ちょうど3Dで、ぐっと差し出した手が目の前、数センチの近さでまで伸びてきて、いきなり胸の中に押し込まれた感じ。
キャラクターは、ハッキリ言って気持ち悪いし、たとえ強欲で嫌われ者の存在でも、その人をオモチャみたいに道化させて、笑わせようというシーンは気に入らない。かなり、優しくなっちゃってます、私が・・・。
ちなみに、私は3Dで観たけど、3Dじゃなくても、いいような気がします。3Dじゃなくても、この映画から、何かを感じ取れたんですから、少なくとも私は・・・。きっと原作の力が、私に作用したのかもしれません。
ゼメキスの最近の作品だと、『ポーラー・エクスプレス』も、『ベオウルフ/呪われし勇者』も気に入ってたりするんですが、この作品には、前2作を越えるような魅力は感じられなかった。3Dは確かに素晴らしいけれど、以前観た実写の3D作『U2-3D』を越えるような体験は、出来なかったし。
意図しないものが3Dによって、目に飛び込んでくる新鮮さは、アニメ系の作品ではかなり意識しないと難しいし、そればかりに囚われると作品の本質を見失いかねないので、大変だとは思いますが・・・。
『きみがぼくを見つけた日』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
異なる次元に引き裂かれる恋人たちの切ない運命を描き、アメリカで大ベストセラーとなった純愛小説を映画化。脚本は『ゴースト/ニューヨークの幻』のブルース・ジョエル・ルービン。主人公の恋人同士を『きみに読む物語』のレイチェル・マクアダムスと『ミュンヘン』のエリック・バナが演じている。製作総指揮にはブラッド・ピットも参加。時空を超える愛の行方と運命に打ち勝とうとする恋人たちの姿が感動を呼ぶ、珠玉のラブストーリー。
おはなし「時空を旅する運命を背負うヘンリーは、どんなときにどの時代のどこへ飛ぶのかは自分で選べない。秘密を抱えた孤独な人生を送る彼は、ある日、旅先の過去で、一人の少女に出会う。やがてヘンリーは、少女から美しい心の女性へと成長したクレアといつしか愛し合うようになるが……。」
シネマトゥデイ より
めちゃくちゃラブ・ロマンスだとばかり思っていたんだけれど、かなり雰囲気は落ち着いていて、ハデさを抑えた、真面目な(?)タイムトラベラーものでした。そう、タイムトラベルを特別扱いしていなくて、とてもホッコリ、気持ちが優しくなる作品でした。
この映画では、不思議なことに「タイムトラベルの何故」を追求する姿勢が登場人物たちに殆どなくて、なってしまったのもは仕方がないと、素直に事態を受け入れているところは清々しささえ感じられました。
彼が、その能力をお金儲けに利用したとき、妻は「何故、そんなことをするの?」と問い詰める。
あっ、この作品って、とても誠実な人たちだけが出てくる映画なんだと、どこか安心してしまいました。きっと、この二人なら、悲惨な結末には、きっとならないんだろうなぁ、なんてね。
つまるところ、タイムトラベルって、別に大したことじゃないんだ、この事実を真正面から受け止めて、せいいっぱい生きていこうと、あっさり受け入れちゃっているところ、スゴイと言えばすごい。なんか生きるうえでの大切なものを教えてもらった気持ちになりました。
作品の底には、「逆まわりの世界」みたいな諦観があるけれど、とても素直な気持ちにさせてくれる作品でもあります。
そして、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』みたいに、時代の様子が表に出てこないところに、あくまで個人的なレベルでの「できごと」として描こうとする視点が見えて、近しさを感じました。
大騒ぎするような、問題じゃないんだ、ただ生きていくことの喜びと悲しみが、他の人とちょっと順序が違うだけなんだって、全てを受け入れようとする登場人物たちの姿勢が、他にも通ずるような気がして、胸を打ちました。
ただ、余りにも淡々としすぎていて、メリハリがないと言えば、そんな気もします。それが、演出として意図的であるのか私には疑問ですが、結果としては良かったように感じました。
主人公はタイムトラベルするとき、衣服を残して行くんだけれど、その服が、彼を囲む人たちにとって、唯一の彼がそこにいたと言うことの証しのように感じられて、残された衣服が画面に写されると、何故か切なくなった。
彼と彼の家族をつなぐ、儚い置き土産。あの服には、彼の気持ちが宿っているように思えました。
おはなし「時空を旅する運命を背負うヘンリーは、どんなときにどの時代のどこへ飛ぶのかは自分で選べない。秘密を抱えた孤独な人生を送る彼は、ある日、旅先の過去で、一人の少女に出会う。やがてヘンリーは、少女から美しい心の女性へと成長したクレアといつしか愛し合うようになるが……。」
シネマトゥデイ より
めちゃくちゃラブ・ロマンスだとばかり思っていたんだけれど、かなり雰囲気は落ち着いていて、ハデさを抑えた、真面目な(?)タイムトラベラーものでした。そう、タイムトラベルを特別扱いしていなくて、とてもホッコリ、気持ちが優しくなる作品でした。
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この映画では、不思議なことに「タイムトラベルの何故」を追求する姿勢が登場人物たちに殆どなくて、なってしまったのもは仕方がないと、素直に事態を受け入れているところは清々しささえ感じられました。
彼が、その能力をお金儲けに利用したとき、妻は「何故、そんなことをするの?」と問い詰める。
あっ、この作品って、とても誠実な人たちだけが出てくる映画なんだと、どこか安心してしまいました。きっと、この二人なら、悲惨な結末には、きっとならないんだろうなぁ、なんてね。
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つまるところ、タイムトラベルって、別に大したことじゃないんだ、この事実を真正面から受け止めて、せいいっぱい生きていこうと、あっさり受け入れちゃっているところ、スゴイと言えばすごい。なんか生きるうえでの大切なものを教えてもらった気持ちになりました。
作品の底には、「逆まわりの世界」みたいな諦観があるけれど、とても素直な気持ちにさせてくれる作品でもあります。
そして、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』みたいに、時代の様子が表に出てこないところに、あくまで個人的なレベルでの「できごと」として描こうとする視点が見えて、近しさを感じました。
大騒ぎするような、問題じゃないんだ、ただ生きていくことの喜びと悲しみが、他の人とちょっと順序が違うだけなんだって、全てを受け入れようとする登場人物たちの姿勢が、他にも通ずるような気がして、胸を打ちました。
ただ、余りにも淡々としすぎていて、メリハリがないと言えば、そんな気もします。それが、演出として意図的であるのか私には疑問ですが、結果としては良かったように感じました。
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主人公はタイムトラベルするとき、衣服を残して行くんだけれど、その服が、彼を囲む人たちにとって、唯一の彼がそこにいたと言うことの証しのように感じられて、残された衣服が画面に写されると、何故か切なくなった。
彼と彼の家族をつなぐ、儚い置き土産。あの服には、彼の気持ちが宿っているように思えました。
『ダウト-あるカトリック学校で-』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
概要「1964年のニューヨーク。ブロンクスにあるカトリック学校セント・ニコラス・スクールでは、校長のシスター・アロイシスが厳格な指導を信条に日々職務を果たしていた。一方、生徒の人気を集めるフリン神父は、ストイックな因習を排し進歩的で開かれた教会を目指していた。しかし、唯一の黒人生徒ドナルドと不適切な関係にあるのではないかという疑惑が持ち上がり、シスター・アロイシスによる執拗な追及が始まるのだった…。」 goo 映画より
何故かこころが落ち着く映画。続けて、もう一回観ていたい気持ちにさせる映画。
こういった流れの、こういったテンポの静かな映画が一番好きかも知れない。
結局、事件は起こったのかどうなのか、ハッキリはしない。結論も決着も見ている誰もが、一つの思いに導かれるわけではない。そして、映画の中の当事者たちにとっては忘れられない出来事なのかもしれないけれど、それは限られた人々の胸の中に収められて、過去という時間に呑み込まれていく。
正義も正解も、どの目線で見れば正しいのか、実ははっきりしないのが現実。「疑惑」「疑い」、というタイトルは、一見この映画のすべてを表しているようだけれど、タイトルへの「疑い」さえ連想させる、映画としての面白さに溢れている。
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舞台劇からの映画化で、原作・脚本家が自ら監督した作品。観ていていかにも舞台劇だとは感じさせるけれど、それが気になるどころか納得してしまう映画になっている。
映画化にあたって、無理して話を付け足したり、場所を拡げたり、人物を増やしたりしていないように思えるシンプルで誠実な視点が、爽やかに潔く感じる。
シスター・アロイシス演じるメリルストリープと、フリン神父役のフィリップ・シーモア・ホフマン。この二人の役者が発散するイメージが、一筋縄ではいかない演じる役のキャラクターの奥深さに、生かされている。
事件への関わりや本音を、そのままイメージどおりに連想すればいいのか、或いはもっとシンプルでストレートな人物設定なのかさえ、こちらには図りかねる存在感があり、監督はそれを巧みに利用して、ストーリーを進めていく。
けれど、この作品で描いているのは、彼らの行動を通して観客自らが探さなければならないもの、だったりするところが、また別に面白かったりもする。
「神から遠ざかろうとも、それもまた神のためです」と、信仰を掲げてフリン神父に詰め寄るシスター・アロイシス。単視眼的に思える役もメリル・ストリープが演じると、何故か笑えず、納得してしまう。
フィリップ・シーモア・ホフマン演じるフリン神父も、どこまで下心があるのか、腹が見えない不気味さを、最後まで隠し持っている。
そういった意味では、演技を楽しむ映画でもあるんですよ、って正々堂々と突き放しているところも、面白かった。
彼らが演じているのは、何重にもなった人間の奥深いところにある心理の凄まじさ。心理劇などというレベルを超えてしまったところにある、人間としての存在理由の闘いに見えてくる。
けれど、映画としてのアンサンブルはかなり巧妙で、二人の間に入って、観客との緩衝材の役目を果たすシスター・ジェイムズを演じるエイミー・アダムスと、観客と映画との距離を縮める橋渡し役のミラー夫人を演じるヴィオラ・デイヴィスも素晴らしい。
この4人が、簡潔なんだけれど、かなり秀逸に配置されていて、唸らされる。特に「起承転結」の「転」の役目のヴィオラ・デイヴィスが、聖職の物語を一挙に身近な地平まで、引き下ろしてくる件 (くだり) が素晴らしいと思う。
また、風に舞う枯葉など季節の変化に彩られた町並みの佇まい、横殴りの雨、ツィターの響き、さりげない小道具など、映画でこそ発揮されるイマジーネーションへの働きかけも、憎いほどに効果的に使われている。
小品なんだけれど、私にとって忘れられない映画であることは確かです。映画を観る楽しみを、確認させてくれた、久しぶりの作品でした。
イギリスの監督ジョセフ・ロージーの作品をどこか連想させる冷ややか視線。けれど、この作品の底には人間に対しての、ぬくもりのある暖かなものが感じられた。
ところで、あのラストは「救い」なのか何なのか、ちょっと疑問ではあるんですが、監督の心配りと考えることにします。(^_^)
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『2012』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
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話題の映画だし、予告編とかテレビのスポットを見て、映像の迫力だけでも味わいたいと思い映画館へ出かけました。
良くても悪くても話の種にはなるし、ミーハー心も手伝って、つい観に行ってしまいます。ウチのテレビのサイズじゃ、ブルーレイとかで見ても意味ないような気がするしね。で、やっぱり映画館じゃないと、この作品の魅力は満喫できないと実感しました。
そう、かなり楽しんでしまいました。私の場合は、「『2012』を楽しむ」というより、「『2012』を観に行く」ことを楽しむ、に近いと思います。映画館で見せてくれるアトラクションを楽しむ感覚です。
ふと我に返ると、CGだらけの作品だし、描かれる人間模様も私にはいまいち受け入れられないような疑問だらけ。でもきっと、大ディザスター映画の作法を守った、とてもよく出来た作品なのかもしれません。
そう、あんまり余計な事は考えずに、素直に楽しみたい気持ちが心の底にあって、すべてを受け入れさせようとします。CG映像と音響は迫力あったし、「OK!」と心のメモに書くことにしました。
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マヤの予言とか、一応作品の冒頭では人類滅亡の予兆とか描かれますが、そんなのほんと付け足しの感じだし、最終的にはこういう状況で人間って何が出来るんだろう、って疑問を投げかけてくるみたいなメッセージは確かにあります。
でも結局、善も悪も関係ないところで事態は急変していくパターンに、全ては押し流されしまうんですよね。
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じゃ、どんなところが楽しめたかってことだけど、主人公たちが災害を切り抜けていく数々のシーンの、あっけらかんとした調子良さです。
「そりゃ、ないだろ」の強運シーンの連続。これでもかこれでもかと繰り返される天変地異を強行突破していく爽快感。
ハッキリ言って何回笑ったことか数え切れません(冷笑ではありませんよ、念のため)。楽しませてくれた嬉しさからの笑いです。
ハラハラドキドキなんて余裕さえ与えない「ウソだろ」シーンの連続。これはかなり気持ちいいです。
まるで超難しいテレビゲームをテンポよくクリアしていく、ゲーマーの腕捌きを傍らで見せてもらっている感覚です。その凄腕に見とれて、まるで自分がゲームでもしているみたいに感じてしまう、疑似体験の気持ちよさです。
後半は、一応「お話」をまとめるために、色々と無理して大義名分ぽい雰囲気を出そうとしている感もないわけではないですが、私はとりあえず、大きく拡げすぎた間口を閉じるための儀式のように感じました。
「別にそれでいいんじゃないかな」なんて、アッサリ認めてしまう自分がいました。あんなに気持ちよく楽しく笑わせてくれたんだから、素直に納得です。(^_^)
映画「2012」予告
『ハルフウェイ』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
この作品の特徴は、台本はあるのだけれど決定稿ではなく、その台本を手渡された役者が、一度自分の中で咀嚼して、自分の言葉に置き換えて話しているということだそうです。
まっ、「自由にしゃべっていいよ」と監督は役者に伝えているんだろうけれど、そう言われた役者は「はい、わかりました。勝手にしゃべらせていただきます。」なんてことは思わないだろう。そう、自分らしくというよりは、今の高校生が使いそうな表現、或いは言い回しを駆使して、役者から出てくる言葉は決定されていったような気がする。つまり、役者たちは自分で自分を演出しているのだろう。
誰が聞いても不自然であったり、意味不明であったりしないような表現を、きっと無意識に意識はしていただろう。つまるところ、実際は自由でも自然でもなく、その年代の感性というフィルターを通してその発せられる言葉であれば、何でもいいのだと思う。言葉自体が、この作品で大事なのではなく、言葉を自由に任されたことによる、役者が感じる、演じることへの違和感やストレスからの解放、そして置かれている状況が引き起こす精神的な不自然さの一掃なのかもしれない。なんて観ながら思っていた。
北乃きいを見ていると、まさに彼女が、自由に生きている(動いているように)ように感じてしまう。
役者たちが監督から任された思った段階で、その役の呪縛から解放されたと勘違いすることによって、生まれてくる、一種の「場の雰囲気」の自然さや安定感を狙っているのではないだろうかと思う。
「言葉の自由」に意味があるのではなく、言葉から解放された精神状態から演じられる、一見、自然に見えるフィクションの面白さを、狙っているのかもしれない。
したがって、自然に見える北乃きいの演技が、昨年の『ラブファイト』とさして変わらなくても、何も不思議なことはない。そう彼女が培った演技経験から生まれる、言葉と演技なのだから。北乃きいオリジナル、素の北乃きいではなく、役者としての北乃きいオリジナルなんだよね。
しかし、最近見かけるコマーシャルでの彼女と、さして変わらない北乃きいが、そこにいる。彼女は確かに、さらに変化していくのだろうけれど・・・。その諸刃は、この作品を既に過去のものとして、置き去りにし始めているような気さえする。
そして、いかにも自然ですと言わんばかりに、カメラワークは、ドキュメンタリーさながらに手持ちカメラを駆使したものだったりする。
冒頭の自転車での通学風景は、ピンポケ気味のカメラワークで、まずは観客に、この作品の不安定への心構えを要求する。しかし、不安定さこそが、青春だと、言わんばかりに、この作品でのカメラワークは、不安定なスレスレの自由度で動き回る。ピンポケだったのは、導入部だけ、うまく乗せられてしまった気さえする。
高校3年生の秋から冬までを、いかにも、そのまま切り取ったかのような作風は、確かに成功していると思う。まさにドキュメンタリーを見せられているような錯角さえ覚える。
あっ、でも昔、こんな映画観たよな。たしか羽仁進の『午前中の時間割り』。好きな映画だったなあ・・・。
← この映画館で観ました
それはさておき、巧妙に作られた、偽ものの青春がそこには確かに本物らしく、存在している。「うまい」ではなく「やられた」、そして「のせられた」観客の一人になってしまったのは、確か・・・。
う~ん、しかし、思い出って、その真っ只中にいるときは、何も考えずに「がむしゃら」なんだよね。だから、色は全く付いていない無色透明な、弱々しいもの。
でも、その一秒後から、既に思い出は自分の色によって美しく変色していき、その色によって強ささえも持ちえていくもの。
この作品は、その美しく変色してゆくことさえ拒否していて、無色なままのような気がする。『ハルフウェイ』の魅力は、そこにあるように思う。
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『重力ピエロ』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
仲のいい兄弟の「遊び」の延長上にミステリーがあるんだけれど、彼らの「遊び」は禁じられた遊びなのだろう。まるでお伽噺みたいなお話。
きっと大人になりきれていない子供が、一途に思いつめて引き起こす「悪戯」。
『春が二階から落ちてくる』、予告編でも聞けるセリフ。堕ちるのは勝手だけど、たかだか2階という小さな世界観、この言葉がすべてを表している気がするジュブナイル・ファンタジー。
予告編を見ていると、ミステリーが強調されている。その部分にも期待したけれど、映画のメインとなる放火事件についての、兄弟の最初のセリフで、大方の予想はついてしまい、悲しいかな犯人も見えてくる。
きっと、この映画が描きたかったのは、「ミステリー」ではなく、子供の「遊び」を大人がすると、こんなことになっちゃうけれど、それも、みんな子供の「幻想」でしかなかったよって感じの、幼い頃の幻影に囚われた兄弟の、「まぼろしの家族」についてのお話。
エンド・クレジットには表記されていないけれど、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」が印象的にピアノで流れてくる(単にメロディーをいただいただけかもね) 、それも二回流れてくる。
「マ・メール・ロワ」のなかの「妖精の国」という終曲なんだけど、やっぱりこの兄弟はそうなんだよなあと、納得してしまった。
そういえば、吉高由里子が「不思議の国のアリス」のウサギに見えたのは、私だけだろうか。事件への案内者としては、とても大切な存在なんだけど、これが結構可愛いんだよね。吉高由里子のウサギさんは (^_^)
かなり重い話のはずが、何故かとっても爽やかに語られている。巧妙に演出されたギリギリの生活感のなさは、役者に負う所も多分にあるんだろうけれど、何も事件は起こらなかったと、つい錯覚してしまいそう。
『二人で遊んでいたのか?』とは、父親の言葉。そう、二人で遊んでいただけ・・・。
『ノーボーイズ、ノークライ』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
観た直後は、かなり印象が良くて気に入っていた作品だったのだけれど、しばらく時間が経ってしまったら、何も思い出せなくなっていた。(^^ゞ
何故なんだろう? 感想を書こうとしても、「思い出すという行為」を意識しないと何も出てこない。そんな程度の作品ではなかったはずなのに・・・。
もしかしたら、そんな程度の作品なのか・・・、どうも釈然としないんだけれど素直に書くと、感想の出だしはこうなってしまう。
映画は、裏の世界に片足を突っ込んでいる日韓二人の青年の、ちょっと切ないお話なんですが、意外とさらっと、意外とあっさり感じてしまう。
そう、お話も殆ど日本でのことなんだけれど、どこの国なのかわからない、心もとなさが漂ってるし、時代感みたいなのも、どこか欠落していて、ぎこちなさも感じないわけではない。
確かに風景をみれば舞台は日本。でも、映画は、二人の根無し草みたいな存在を象徴するかのように無国籍な、そこはかとない雰囲気に支配されている、こわれものでも扱うように、掬い取るべきなのか・・・。
とりあえず、後半、彼らが商店街のカラオケ大会みたいなのに飛び入りして、「アジアの純真」を歌うシーンが出てくるんだけれど、このときの乱暴でやけっぱち気味な二人の歌声が、私の胸には異様にグサっときた。
この「一瞬」が二人の距離を縮めてしまったんだな、ってストレートに伝わってくる。でも、ここに、全ては収束してしまうのか、嬉しいような悲しいような、そして寂しいような・・・。
やりばのない、ゆくあてのない、二人の空しい"幸福の時間"のゆくえ。
「何を言いたいのか」が、監督と脚本の間には微妙なズレがあって、映画としてはそれなりにまとまっている分、「何か」がぼやけてしまっているように思う。
ラストを、あのように演出するのなら、もう少し全体の描写はハードボイルドでもよかった気もする。
フィルム・ノワールの匂いがかすかにしていたと思うんだけど、勘違いだったのか・・・。
何故か『冒険者たち』を思い浮かべた。
『ホワイトアウト』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
ケイト・ベッキンセイルが出てます。あの『アンダー・ワールド』のケイト・ベッキンセールです。で、どんな映画かも調べずに、ふらふらと映画館に行ってしまいました。(^_^)
でも、きっとSFかも、いやサスペンス・ホラーかも、なんて想像してたんですよ。(^_^;)
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いやあ、驚きました。なんと、南極を舞台にした正統的な(?)サスペンス・アクション、彼女は 米国の捜査官の役でした。しかし、作品の中盤で、実はこの事件、宇宙からの生命体が絡んでいるとか、未知なる物体の影響で・・・なんて、あらぬ方向に物語が進展していくかもしれないと、そんな思いが頭をよぎったことは確かでした。
だって、あの『アンダー・ワールド』のケイト・ベッキンセールなんだもん。スタイリッシュでカッコいい『アンダー・ワールド』の・・・。
・・・・結局、最後まで、しっかりとサスペンス・アクションでした。
南極が舞台なんで、最近だと邦画の『南極料理人』を思い浮かべますが、えっ、同じ南極なの?って感じで、『ホワイトアウト』は、限りなく極寒の限りなく最果ての、南極の怖さと隣り合わせの恐怖が前面に押し出されています。
南極ってリゾート地みたいだ、なんて思わせるあの作品とは真逆の、追い詰められた、閉じ込められた空間でのサスペンス・アクションに仕上がっています。
ホワイトアウト(雪や雲などによって視界が白一色となり、方向・高度が識別不能となる現象)って凄いなあ、ただただ怖いなあ、とケイト・ベッキンセールの活躍を固唾を呑んで見入っていました。
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ただ、観終わってみると、ごく普通の事件でした。南極という場所が事件をいっそう謎に包み、サスペンスをさらに盛り上げてはいますが・・・。
ベッキンセールが演じた捜査官は、本土での過去に関わった事件のトラウマから逃れるために、南極基地に赴任してきたのですが、この映画では過去の事件がフラッシュバックで挿入されます。
このフラッシュバックは、さほど謎めいた事件のものではないので、人物説明として必要ならば、冒頭にもって来るべきだったように思います。決してベッキンセール演ずるステッコ捜査官は、謎めいた人物ではないんですから。そう、フラッシュバックを、うるさく感じました。
一方、南極での事件の発端説明が映画冒頭に登場するんですが、こちらを細かくフラッシュバックさせたほうが、作品がさらに謎めいて面白かったよう気がします。
作品に緩急をつけられるような遊びが全くなくて、スケールが大きい雰囲気を押し出しているわりには、小さくまとまった映画になってしまったように思います。まっ、最初のベッキンセールのお楽しみシーンが、唯一の息抜きというのも寂しい気がします。
ホワイトアウト予告
『空気人形』 (2009) [映画 (2009 鑑賞作品)]
「こころ」を持ってしまったと言い張る (ラブドール) のお話。
彼女( 空気人形 ) は、「こころ」という言葉を簡単に使っているけれど、人間の持っているほんの一部分の感情でしかないものを、やっと知り始めたばかり。
そう、その「こころ」を持ってしまったばかりに世界が見えてくるのだけれど、その世界は限りなく小さい。
空気で出来ているんだから仕方がないのだけれど、彼女が手を太陽にかざすと向こう側が透けて見える。
人間に似てはいるけれど、間に遮るもののない、限りなく透明で、いさぎよく爽やかな、彼女はそんな存在。
まっ、彼女と同じものが、世間にはかなり出回っているらしくて、人間に混ざって生活しているという話だ。ただ、簡単には見分けが付かないらしくて、やっかいな世の中になってしまっているらしい、とも聞いている。
でも、どうやら現実は、そうらしい。否定できない気がする。
彼女はきっと、人形じゃないんだと、スクリーンを見ながら何度も思った。「幻想」でも「ファンタジー」でもないんだこの映画は、と何度も思った。
彼女が最後にとった行動は、人間に近づいているという証しなのか、確かに、彼女と同じ行動をとろうという人間が増えているらしい。でも、それって案外、人間が彼女に近づいているという事なのかもしれない。
作品の、呆れるぐらいに自分勝手で独りよがりなところは、かなり他意を感じる。ただ、悪意はないと解釈したくなるほどに、いとおしささえ感じる映画でもある。
限りなく賞賛したい、一級品の愛すべき駄作だと思う。
空気人形 予告編
ご訪問くださる皆様に、こころから感謝いたします。
皆様に幸あれ!!! です。 ヽ(^o^)丿